2014年05月10日
家族で過ごした3日間。
連休は一回目の抗がん剤の治療が終わり、
お父さんも一時退院だったので私も1ヵ月半ぶりに我が家に帰った。
兄は仕事で帰って来れなかったけど、
義姉の美雪ちゃんと姪の理子も帰ってきて賑やかだった。
理子が来るとお父さんも元気が出て、
痩せた体で手作りの餃子を作ってくれた。
お父さんの調子は…と言えば、あれこれ食べたいものばかりだけど
水さえも入っていかないという感じだった。
抗がん剤の治療が終わった頃は食欲があったのに。
「食べられるって、こんなしあわせはないね」と言ってたのに。
「何か食べられるものはないかね~」
とお母さんが糖度12度のカットスイカを買って来たら
「これは美味しい!」と喜んで食べていた。
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2015年夏のひとコマ。東京羽田にて。
お父さんの初盆。
そら行かんといかんわ。親として当然やが・・・「諏訪内晶子 成熟のアンサンブル」
大好きだった耕くんのパパ
ひとり暮らしを始めて12年。
家族6人で過ごしたお正月。
お父さんの初盆。
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大好きだった耕くんのパパ
ひとり暮らしを始めて12年。
家族6人で過ごしたお正月。
Posted by あっこちゃん at 12:24│Comments(3)
│家族
この記事へのコメント
お父さんが一時退院され、ご家族で久しぶりの団欒を過ごされたようですね。
抗がん剤治療は副作用が強く、その辛さは体験した者でなければ分りませんが、そんな体を押して餃子を作ってくれたお父さんの気持ちが、何となく分るような気がします。
人生の最期をどのように締めくくるか。
これは、人生最後の大仕事と言ってもいいでしょう。
勿論、人間の寿命など誰にも分りません。
前々回のコメントにも書きましたが、半年の命と言われながら、十五年間も生きられたご住職もいますし、二週間の命と言われながら、八年間も生きた父の例もあります。
お父さんの寿命だって分りません。
しかし、たとえそうであったとしても、いつかは最期を迎えなければならない以上、限りある人生をどのように生き、どのように死んでいくかは、息が切れるまで問われ続ける問題です。
犬猫や鳥や虫に生まれたならいざ知らず、人間の身に生まれた以上、これは絶対に避けて通れない問題です。
余命宣告されたという事は、いつかは向き合わねばならない問題が、お父さんの場合は他の方より少し早くやってきたという事です。
お父さんは、余命宣告された事で、人生の最期をどのように締めくくるかを、いま真剣に問いかけておられるのではないでしょうか。
世の中には、そんな問いかけをするいとまもなく、死という招かざる客に突然訪問され、別れも言えずに去っていかれるお方も、大勢おられます。
私の家内の母なども、家内が仕事から帰ってきたら、自宅で倒れて亡くなっていました。
脳梗塞で、即死状態だったとの事です。
それがいいのか悪いのか、私には分りません。
しかし、限りある命とはいえ、最期を考える時間や、家族との団欒を楽しむ時間くらいは与えて欲しいものです。
誤解を恐れずに言えば、お父さんは、余命宣告されてよかったのではないでしょうか。
ご家族の皆さんと、かけがえのない時間を共有するいとまを与えられたのですから。
「痩せた体にむち打って餃子を作ってくれたお父さんの気持ちが何となく分るような気がします」と言いましたが、恐らく明子さんもご家族の皆さんも、今までお父さんが作られた餃子を何度も食べられた事があると思います。
でも、今までの餃子の味と、痩せた体で作ってくれた餃子の味は同じだったでしょうか?
きっと違っていたのではありませんか?
何故違っていたのか!
それは、この餃子が、残された大切な命の火を燃やして作られた、命の餃子だからです。
この餃子には、皆さんに対するお父さんからのメッセージが込められている筈です。
そんなかけがえのない時間を与えられたという事もまた、幸せの一つと言えるのかも知れません。
仏教で説かれる四苦八苦の中に、愛別離苦(愛する人と別れなければならない苦しみ)があります。
生き別れ、死に別れ、夫婦の離婚、家族の離散、蒸発等々、愛する人との別れ方は様々ですが、遅かれ早かれ別れの日は必ずやってきます。
いつの世も別れに涙はつきものと決まっていますが、涙だけの別れは悲しすぎますよね。
もしそこに笑顔が添えられたら、その人の人生の総決算は大成功だったと言っていいでしょう。
お父さんの人生の総決算もきっと大成功間違いありません。
私はそう信じています。
抗がん剤治療は副作用が強く、その辛さは体験した者でなければ分りませんが、そんな体を押して餃子を作ってくれたお父さんの気持ちが、何となく分るような気がします。
人生の最期をどのように締めくくるか。
これは、人生最後の大仕事と言ってもいいでしょう。
勿論、人間の寿命など誰にも分りません。
前々回のコメントにも書きましたが、半年の命と言われながら、十五年間も生きられたご住職もいますし、二週間の命と言われながら、八年間も生きた父の例もあります。
お父さんの寿命だって分りません。
しかし、たとえそうであったとしても、いつかは最期を迎えなければならない以上、限りある人生をどのように生き、どのように死んでいくかは、息が切れるまで問われ続ける問題です。
犬猫や鳥や虫に生まれたならいざ知らず、人間の身に生まれた以上、これは絶対に避けて通れない問題です。
余命宣告されたという事は、いつかは向き合わねばならない問題が、お父さんの場合は他の方より少し早くやってきたという事です。
お父さんは、余命宣告された事で、人生の最期をどのように締めくくるかを、いま真剣に問いかけておられるのではないでしょうか。
世の中には、そんな問いかけをするいとまもなく、死という招かざる客に突然訪問され、別れも言えずに去っていかれるお方も、大勢おられます。
私の家内の母なども、家内が仕事から帰ってきたら、自宅で倒れて亡くなっていました。
脳梗塞で、即死状態だったとの事です。
それがいいのか悪いのか、私には分りません。
しかし、限りある命とはいえ、最期を考える時間や、家族との団欒を楽しむ時間くらいは与えて欲しいものです。
誤解を恐れずに言えば、お父さんは、余命宣告されてよかったのではないでしょうか。
ご家族の皆さんと、かけがえのない時間を共有するいとまを与えられたのですから。
「痩せた体にむち打って餃子を作ってくれたお父さんの気持ちが何となく分るような気がします」と言いましたが、恐らく明子さんもご家族の皆さんも、今までお父さんが作られた餃子を何度も食べられた事があると思います。
でも、今までの餃子の味と、痩せた体で作ってくれた餃子の味は同じだったでしょうか?
きっと違っていたのではありませんか?
何故違っていたのか!
それは、この餃子が、残された大切な命の火を燃やして作られた、命の餃子だからです。
この餃子には、皆さんに対するお父さんからのメッセージが込められている筈です。
そんなかけがえのない時間を与えられたという事もまた、幸せの一つと言えるのかも知れません。
仏教で説かれる四苦八苦の中に、愛別離苦(愛する人と別れなければならない苦しみ)があります。
生き別れ、死に別れ、夫婦の離婚、家族の離散、蒸発等々、愛する人との別れ方は様々ですが、遅かれ早かれ別れの日は必ずやってきます。
いつの世も別れに涙はつきものと決まっていますが、涙だけの別れは悲しすぎますよね。
もしそこに笑顔が添えられたら、その人の人生の総決算は大成功だったと言っていいでしょう。
お父さんの人生の総決算もきっと大成功間違いありません。
私はそう信じています。
Posted by 大西良空 at 2014年05月15日 09:46
大西さんコメントありがとうございます!
お父さんに見せたら「いい文章だね~一度大西さんに会ってみたいもんじゃ~」と言ってました。
お父さんに見せたら「いい文章だね~一度大西さんに会ってみたいもんじゃ~」と言ってました。
Posted by あっこちゃん
at 2014年05月18日 13:39

そうですね。お互いに会いたいと思っていれば、きっと会えますよ(^^)
でも、実を言うと、私はもう毎日、皆さんにお会いしているんです。
毎朝の行法の中で、ご縁の皆さんの救いを祈らせて頂いていますので(その中には坂中家の皆さんも、勿論入っています)、私自身は、お祈りの中で、毎日皆さんとお会いしているつもりです。
その点、肉体は、不自由なものです。
飛行機や電車に乗らないと行きたくても行けないし、病気もするし、睡眠も必要だし、食べ物をお腹にいれてあげないと、動いてくれません。
心は、いつでも好きな所へ行けるし、好きなお方と会う事も出来るし、病気知らずだし、食べなくてもいいし、まさに眼に見えないスーパーマンです。
眼には見えませんが、間違いなく彼は私の中にいます。
明子さんの中にも、お父さんやお母さんの中にも、勿論います。
この文章を書いている間も、心のスーパーマンは、皆さんに会いにいっていますよ。
姿が見えないだけです。
不自由な肉体と、自由な心が同居しているのが、われわれ人間です。
明子さんは、不自由な肉体を持った自分と、自由な心を持った自分の、どちらと仲良くしたいですか?
誰でも、自由な心を持った自分と仲良くなりたいですよね。
でも、その為には、自分から先に手を差し出さないといけないんです。
そうしないと、スーパーマンは握り返してくれません。
いまお父さんの不自由な肉体は、病気のせいでさらに何倍も不自由になって、悲鳴をあげている筈ですが、こんな時こそ、心の中にいるスーパーマンの力が必要です。
自由な心をもっともっと自由にしてあげて、不自由で苦しんでいる肉体を支えてあげないといけないんです。
そうすれば、不自由な肉体だって、もっと自由になりたいと、思いもよらない底力を発揮するに違いありません。
明子さんだって、そのスーパーマンに助けられて、今日まで元気に生きてこられたんじゃないでしょうか。
お父さんの病気も大変な試練ですが、明子さんが背負っている試練も、それに勝るとも劣らない大きな試練だと思います。
でも、明子さんは、その試練を立派に乗り越えてこられたんです。
乗り越えさせてくれたのは、明子さんの心の中にいるスーパーマンです。
だから、今回の試練も、必ずスーパーマンが助けてくれます。
明子さんは、心の中のスーパーマンの存在を教えてくれた生き証人ですから、その生き証人がいるご家族を助けてくれない筈がありません。
でも、実を言うと、私はもう毎日、皆さんにお会いしているんです。
毎朝の行法の中で、ご縁の皆さんの救いを祈らせて頂いていますので(その中には坂中家の皆さんも、勿論入っています)、私自身は、お祈りの中で、毎日皆さんとお会いしているつもりです。
その点、肉体は、不自由なものです。
飛行機や電車に乗らないと行きたくても行けないし、病気もするし、睡眠も必要だし、食べ物をお腹にいれてあげないと、動いてくれません。
心は、いつでも好きな所へ行けるし、好きなお方と会う事も出来るし、病気知らずだし、食べなくてもいいし、まさに眼に見えないスーパーマンです。
眼には見えませんが、間違いなく彼は私の中にいます。
明子さんの中にも、お父さんやお母さんの中にも、勿論います。
この文章を書いている間も、心のスーパーマンは、皆さんに会いにいっていますよ。
姿が見えないだけです。
不自由な肉体と、自由な心が同居しているのが、われわれ人間です。
明子さんは、不自由な肉体を持った自分と、自由な心を持った自分の、どちらと仲良くしたいですか?
誰でも、自由な心を持った自分と仲良くなりたいですよね。
でも、その為には、自分から先に手を差し出さないといけないんです。
そうしないと、スーパーマンは握り返してくれません。
いまお父さんの不自由な肉体は、病気のせいでさらに何倍も不自由になって、悲鳴をあげている筈ですが、こんな時こそ、心の中にいるスーパーマンの力が必要です。
自由な心をもっともっと自由にしてあげて、不自由で苦しんでいる肉体を支えてあげないといけないんです。
そうすれば、不自由な肉体だって、もっと自由になりたいと、思いもよらない底力を発揮するに違いありません。
明子さんだって、そのスーパーマンに助けられて、今日まで元気に生きてこられたんじゃないでしょうか。
お父さんの病気も大変な試練ですが、明子さんが背負っている試練も、それに勝るとも劣らない大きな試練だと思います。
でも、明子さんは、その試練を立派に乗り越えてこられたんです。
乗り越えさせてくれたのは、明子さんの心の中にいるスーパーマンです。
だから、今回の試練も、必ずスーパーマンが助けてくれます。
明子さんは、心の中のスーパーマンの存在を教えてくれた生き証人ですから、その生き証人がいるご家族を助けてくれない筈がありません。
Posted by 大西良空 at 2014年05月18日 21:39